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2006年7月30日 (日)

久しぶりに恩師に会って・・・

2006_7_30 写真(左側)のような展覧会(夫婦展!)の案内状をいただいていた。先生の書と奥様のパソコン水彩画の夫婦展。

1時間半ほどかけて、連れ合いといっしょに船橋の市民ギャラリーまで出かけた。

7月25日(火)から始まっていた夫婦展も今日が最終日。何とか出かけることができた。

会場に入るとすぐに先生はわかった。先生も私をわかってくれ「オゥ!」と声を掛けてくれた。

高校の恩師。卒業から既に31年以上経っている。2~3度同窓会をやったが、ここ十数年は会っていなかった。

前回の同窓会はは7~8年前だったが、そのときには先生は既に中国に渡っていて学生に日本語を教え始めていた。定年を前にしての早期退職をしてのことだった。

中国で7年ほど教えられたあと、タジキスタンで1年、そしてロシアのマガダンで10ヵ月と、ここ10年ほどはずっと海外で、それもかなり「不便」な地で過ごされてきた。

先生の様子は同行されていた奥様が開設したホームページで知ることができた。

それも奥さんが描くパソコン水彩画のおかげで、中国・タジキスタン・マガダンとあまり馴染みのない土地の様子を知ることができた。

忙しくお客さんの相手をされている合間をぬって、高校時代の話をしたり、共通の知人の話をしたりして、懐かしさがこみ上げてきた。

こちらからは何も持っていかなかったのに、先生からは写真(右側)のような手作りのわらじをいただいた。

知人のお父さんが95歳でなくなるまでつくられていた「幸運を呼ぶわらじ」で、展覧会に来られた人たちにお土産としてわたしているとのこと。ありがたくいただいた。

「しばらくは日本にいるんですか」と聞くと

「9月から中国のアモイに行くの。日本に帰ってきても2ヵ月もするとむずむずし始めて・・・」とのこと。

「お元気で」と握手をして別れた。胸の中があったかくなった。

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2006年7月26日 (水)

被爆者の声

一昨日(7/25)の朝日新聞西埼玉版に「被爆者284人証言 8時間 ネットに」と題した記事が載っていた。

 所沢市のコピーライター古川義久さん(51)らが、広島、長崎の被爆者284人分の証言を文字に起こして、ネットで公開している。東京都調布市の元放送記者伊藤明彦さん(69)のドキュメンタリー作品「ヒロシマ ナガサキ 私たちは忘れない」のホームページ作成に協力。掲載された関係者の証言は全8時間40分に及び、音声で聞くこともできる。

公開されたホームページ「被爆者の声」に伊藤明彦さんの紹介が掲載されている。

伊藤明彦さんは、元NBC長崎放送の記者で、 長崎で原爆投下後に被爆地に入り、放射線を浴びました。
1971年から全国の被爆者を訪ね歩いて、直接「被爆者の声」を収録。
聞き取った証言などを基に昭和20年夏、広島、長崎の原爆投下前後の状況を再現。
作品はディスク9枚で構成され、生々しい被爆の惨状を伝えています。

「伊藤さんは人生のほとんどをかけて、被爆者の声を記録してきた。本来なら国などがすべき仕事。私たちは、伊藤さんに『記録を残してくれてありがとう』と言うだけでは、すまされない」とホームページを作成した古川さん。

いっぽう伊藤さんは「私は素材を残せた。これからは若い人たちが、様々な形で伝えていってくれれば、それが一番うれしい」と話している。

8月になれば少しゆっくりした時間ができるので、目と耳でヒロシマ・ナガサキの証言を受けとめたいと思っている。

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2006年7月25日 (火)

イラクからの陸自撤収はうれしいけれど・・・

2004年1月の派遣開始から約900日。

派遣された隊員は計5,500人にのぼるという。

今日(7/25)でイラクへ派遣された陸上自衛隊の隊員全員が無事に帰国したことを各紙が報じている。
(→ YOMIURI ONLINE(読売新聞)

現地での活動は「給水活動」ぐらいしか知らないが、何はともあれ「殺しも殺されもせず」無事に撤収できたことは素直によかったと思う。

が、その陸自撤収のニュースに隠れて扱いは小さいが、航空自衛隊の活動が拡大しているという。

7/31AERAが「陸自撤退は目くらまし」「イラクで拡大する空自の対米協力」として報じている。

 空自のイラク派遣は、2003年暮れに先遣隊48人が出発したのを皮切りに、入れ替わりながら約200人ずつが活動。イラク南部の2空港とクウェートを行き来して物資や人員を輸送してきた。

 それが、陸自撤退の報の陰に隠れがちだが、派遣計画は最大でイラク全土の24空港まで拡大し、すでにバグダッドや北部アルビルでの活動が決まった。要員も10人ほど増え、さらに中部バラドや西部アルアサドでの活動も検討されている。

愛媛新聞7/21の社説に書かれた次の主張に私は賛同する。

 気がかりなのは、なおとどまる航空自衛隊員たちのことだ。空自のこれまでの主な任務はC130輸送機三機による陸自への物資輸送だった。これからは国連や軍事活動を前提とする米国など多国籍軍の要員・物資の輸送が中心となる。活動範囲は「危険」として見送ってきた首都バグダッドや、北部アルビルにも拡大されるという。バグダッドなどが「非戦闘地域」なのか、大いに疑問だ。

 危険にさらす空自隊員の安全を、小泉純一郎首相はしっかり確保する責任がある。そして一日も早く空自を含めた「完全撤収」を実現すべきだ。
 自衛隊のイラク派遣の実績を踏まえて、海外派遣を随時可能にする恒久法の制定論議が浮上している。二分する国論を押し切ってイラクに派遣したことを決して忘れてはならない。

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2006年7月23日 (日)

二転三転・・・

6月28日に入院したお母ちゃんは、そこで2週間を過ごした。

当初1週間と言っていたが、途中で熱が出たりして、結局2週間になった。

連れ合いと見舞いに行ったときには、私のことはわかるが、連れ合いには「どちらさんですか?」と聞いたようで、連れ合いも「○○○のヨメです」と応えながらも、ちょっと二人して寂しい気持ちになった。

7月13日に、実家に近い特別養護老人ホームに転院することになった。

80人待ちとか言われていたが、「地元枠?」だの「ショートステイ」だの諸々のつながりなどで何とか移ることができた。

私は仕事で行けなかったので、連れ合いが手伝いに行った。

お母ちゃんは、「退院=家に帰れる!」と嬉しそうだったようだが、車は家を通り越し、さらに山の方に・・・。

7月16日に実家の墓参りもしながら、老人ホームに顔を見に行った。

お母ちゃんは昨日から熱が出ているということで、小さないびきをかきながら眠っていた。

1時間ほどいたが、声をかけても眠っているようで返事はなかった。

最初に入院したときにも熱が出ていたので、新しい環境になじめず、また熱を出しているのかと思った。

どうもその熱がなかなか下がらず、結局、受け入れてくれる病院をさがし、20日に違う病院に入院した。

今日、顔を見に行ってきた。

点滴をしながら、やはり小さないびきをかきながら眠っていた。

途中で看護師さんが熱や血圧を測りにきてくれた。熱は下がっていた。

1時間ほどいたが、ほとんど眠ったままで、そろそろ帰ろうかと思って声をかけたら、少しずつ目が開き始めた。

今日は連れ合いの顔を見ると「○○○さん、太ってるね」「私は骨と皮ばかりになっちゃって・・・」

この間は出てこなかった連れ合いの名前が、今日は自然に出てきた。

「ストレートパンチ」と言いながらも、連れ合いもちょっと嬉しそうだった。

その後出てきたお昼ご飯にも、「ちっとも美味しくないの」とグチが出たりして、少し回復を感じさせてくれた。

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2006年7月 8日 (土)

七夕に(「平和」は我が家から・・・44)

2006_7_7 今日は七夕。

昨晩、闇にまぎれてご近所から笹を調達し、七夕飾りをつくった。

みんながそれぞれ好き勝手なことを短冊に書いて、笹に結びつけた。

今日はそれが軒下に出ていた。

ご近所さんに読まれなければいいのだが・・・。

志望校に受かりますように(中3の息子)

背がのみ(×)びますように(大1の息子)・・・ここで間違いちゃいけないよ!

宝くじが当たりますように(連れ合い)

ばあちゃんがそこそこ回復しますように(私)

そして大学4年生の娘は

就職できますように・・・しなくてもよくなりますように

って(ハァ? って感じです)

もう1本ありました。

笑って過ごしていられますように

って、さすが我が娘・・・。

それにしてもココログはどうしちゃったんでしょう?
昨日、夜の9時半ごろに書き込みを試みたのですが、
ログインに時間がかかり、ひとつひとつのレスポンスが異常に遅い!
やっと「投稿」までこぎつけたが、延々と待たされたあげく「サーバーがみつかりません」
書いた記事は消えちゃうし・・・まったく。

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2006年7月 3日 (月)

兄弟会議。

結局、お母ちゃんは入院した。

お風呂で具合が悪くなったときには、脳内出血があったようで、その影響が脚に出たようだ。

いっしょに住んでいる弟が気付かなければ・・・。

入院したときには既に出血は止まっていたので、とくに治療はせず、様子を見ることになったようだ。

最初は、ボロボロとこぼしていた食事も、いまは上手に食べられている。

脳の浮腫(はれ)がひいてくるにつれて、まっすぐ座っていられなかった身体も、しっかりしてきたらしい。

が、脚はやはり動かないようで、車椅子を押してもらいトイレに行っているらしい。

土曜日、実家で5人が集まり「兄弟会議」を開いた。

救急病院では、治療の必要が無い患者は1週間で退院しなければならないらしい。

その後をどうするか?

兄貴がいろいろと調べたり手続をしたりしてくれたことを話してくれた。

○介護認定には1ヵ月くらいかかる。

○要介護3以上でないと、老人介護施設には入所できない。

○比較的近くの介護施設は現在入所80人待ちらしい。

○要介護2の場合には、施設に15日、自宅介護15日になる。

○自宅介護となった場合には、誰がどう面倒をみるのか。

○介護認定が出るまでは、とりあえず介護施設ににショートステイで入れるか。その場合は月30万円ほどらしい。

○入所にあたって書く書類に、救急車を呼んだ場合に延命治療をするかどうかの記載が必要。

○万が一の時にはどうするか。

結局、退院後はショートステイで介護施設に入ってもらうことになった。病院から直行する。

その後のことは、介護認定が出た段階で、改めて相談することになった。

病院での母ちゃんは、夕方になると、ご飯のスイッチがどうのと言い出すらしい。

お母ちゃん、家に帰りたいんだろうなあ・・・。

60年も住んでた家だもんね。

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