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2006年3月28日 (火)

別れの季節

3月は別れの季節である。

ここ2週間ほどは送別会がとびとびで入っていて、明日、明後日とつづく。

同じ職場の人であれば、送別会のあるなしに関わらず、誰が辞めるとか誰が異動するとかは分かる。

今日は5時過ぎに仕事を終わり、駅に向かって歩いていた。毎日66分以上のウォーキングを心がけている身としては、人を追い越すことはあっても、人に追い越されるということはほとんどない。

たまたま途中の信号で引っかかっていると、「おすぎさん、信号があったから追いついたわ」と声をかけられた。昨年10月までいた元職場の人。

しばらく話していると「あの人が辞めるのよ。今日が最後でまだ仕事してるけど・・・」って。

「え~!何にも聞いてないよ~」と私。

今日が最後っていうことは、やっぱり挨拶しておかないと・・・とUターンすることにした。

途中の和菓子屋さんで気持ちばかりの手土産に桜餅を買い、元いた職場に戻った。

私が去年の4月から10月までいた職場は、専任が一人で後は業務委託している会社のスタッフの方々。

最初は戸惑いもあったけれど、その仕事ぶりにはホントに感心させられた。

やっと打ち解けはじめ、いいチームになったかなと思った矢先に私が異動になった。

たった7ヵ月間の職場で、(少なくなった)後ろ髪をひかれる思いでの異動だっただけに、思い入れがある職場。

専任の異動は分かっても、委託のスタッフまでの異動は分からない・・・。

挨拶に行くと、既に時間外だというのにまだ仕事の引継ぎをしているようだった。ちょっと中断させてご挨拶。

「おすぎさんが来てくれて、ホントに仕事がしやすくなって・・・」とうれしいお言葉をいただく。

持って行った桜餅にも「お花見しながら食べますね」と喜んでもらえた。

「いいチーム」っていうのは、専任も委託も派遣も関係ないんだよね。

そこから一人、また一人と辞めていかれると、やはり寂しい・・・。

3月は別れの季節。

さみしさを乗り越えて、出会いの4月を迎えたい。

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2006年3月27日 (月)

ATMも間違う?!(「平和」は我が家から・・・27)

先週の金曜日(3/24)は給料日だった。

そして我が家では、おこづかいの支給日。

そしてそして、3月は6ヵ月分の交通費も一緒に支給されるのだ。この交通費は私の貴重な半年間の運用資金でもある。

ところが、銀行の封筒から取り出した1万円札を数えはじめた連れ合いが、1度ならず2度3度と数える。

「あれ、おかしい・・・。交通費分で11万円おろして封筒に入れたはずなのに、9万円しかない・・・」

もうひとつの封筒に入った1万円札も数えはじめる。「こっちはちゃんと15万円ある」

通帳を確認すると「お支払い金額欄」に150,000と110,000の印字がされている。

「何か使ったんじゃないの。買い物とかしなかった?」と聞くと

これがカチン!ときたらしい。

「あなたは何、私とATMとどっちを信じるの? 機械は間違えないって思ってるんでしょ!」

「あ~、ちゃんとその場で数えればよかった。ピン札だったからかな・・・」「もうダメだよね・・・」

とド~ンっと落ち込んでゆく。

土日は電話がつながらず、営業日の今日やっと連絡がついたらしい。

一応、時間はかかるが調べてくれることになったとのこと。

それにしてもATMが数え間違えるんだろうか? 

いやいや、ATMだって間違えるんだ!!

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2006年3月21日 (火)

お彼岸・WBC・お母ちゃんの味(「平和」は我が家から・・・26)

今日は春分の日・お彼岸のお中日。
連れ合いと中二の息子と3人で私の実家に車で向かった。

途中のスーパーでお昼のお弁当を4つと「お彼岸」のお花を買った。

10年位前までなら、こういう時には「これから3人で行くから」と電話しておくと、着くころには母のつくったものがテーブルに並んでいたのだが・・・。

9年前に父が亡くなり、それ以来、もともと悪かった膝が少しずつ悪化し、立ち上がるのも、歩くのも辛くなってきた。
いまでは、腰を直角に曲げ、手であちこちをつかみながら、すり足で少しずつしずしずと歩く。
立ち上がる時や歩く時にその体重を支える手の指がかなり曲がり、包丁を持つのも、箸を持つのも思うようにならなくなってきている。

実家に着き、ついていたテレビをWBCに合わせる。
日本が勝っている! やっぱり日本が勝つとうれしいし、日本を応援してしまう。

テレビを見ながら、途中で買ったお寿司と、連れ合いがつくったぼたもちをテーブルに出した。

母は、煮物を出してきた。
「火をつけっぱなしでトイレに行ってたら、戻ってくるまでに時間がかかちゃってねえ・・・。少し焦げちゃったけど」と言いながら・・・。

少し焦げた大根とじゃがいもとにんじんを食べる。
「パンツを上げたり下ろしたりするのも時間がかかってね~」と母。
確かにお母ちゃんの味だけど、こげたところはなんか涙の味がするような・・・。

2006_3_21 母は「お寿司も久しぶりだけど・・・」と言いながら、ぼたもちに手を出した。
なにぶんデカイぼたもち! 不自由な箸で時間をかけながら食べていた。
「私はもうこれでいいわ。動かないからお腹もあまり空かないし」と。

WBCばかり見ているわけにも行かないので、3人で墓参りに出かけた。
なんともポカポカするお日さまで、背中が暑くなってくる。
途中に梅の木があったが、このあたりはやはり寒いようで、まだ花がいくつかひらき始めたばかりだ。
東京では桜の開花宣言があったというのに。

お墓参りもそこそこに再びテレビの前に。
8回に6対5まで追い上げられたときには、かなりヒヤヒヤしたが、結果は優勝!
イチローの、子どものように無邪気に興奮したインタビューがとてもかわいかった。

野球が終わるとそそくさと帰る準備をし、ぼたもちの代わりにちょっと焦げた煮物をタッパに詰め「じゃあね、ばあちゃん。また来るね・・・」と家路についた。

近いうちにまた行こうと思う。

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2006年3月19日 (日)

学童保育のこと(「平和」は我が家から・・・25)

昨日、久しぶりに昔、子どもたちがお世話になった学童保育をたずねてみた。
ちょうど4月から新しく入る子どもたちの説明会があるというので、一緒に話しを聞かせてもらった。

我が家では、いま大学3年生の娘が小学校2年生だった時(13年前?)に引っ越して来て以来、3人の子どもたちがこの学童でお世話になった。
当時はまだ父母会運営だったので、月1回集まる運営委員会ではいつも父母と指導員でお金の話しをしていた。もちろん子どもの話しもしたけれど・・・。

当時は子どもたちも6年生まで在籍できたので、2人、3人と子どもがいると、父母と指導員のつき合いは10年にもなり、強いつながりを持っていた。

子どもたちも、同じ学年の子は高学年になるにつれて少なくなるけれど、6年生まで残った子どもたちのつながりは強く、文字どおり「昼間のきょうだい」。
小学校を卒業してからもずーっとつき合いがあり、我が家の大学生の娘も高3の息子もそうだ。

1996年から、運営の責任が市に移り、父母や指導員はとりあえずお金の心配をしなくて済むようになった。
しかし、同時に対象学年は4年生までとなり、指導員の異動も始まったため、以前のような父母同士、父母と指導員のつながりはだんだん希薄なものになっていってしまう。
学童のOBも(父母も)、そこに行けば懐かしい指導員がいるという状況ではなくなってしまった。

2006_3_19 この写真のレリーフ(粘土細工?)は、上の二人が学童保育を卒所する時に、指導員が本人の希望を聞きながら、ていねいに粘土をこねて作ってくれたものだ。
これを見るたびに、作ってくれた指導員の思いと学童保育の温かさを感じる。
3番目の息子の時には制度が変わったこともあり、そういうものは残っていない。

若いお母さんやお父さんたちと一緒に、入室説明会の指導員さんの話しを聞いた。
この学童ではまだ長くはないけれど、昔の父母会運営時代に別の学童にいた方で、父母との関係をとても大切にしていてくれる方。
希薄になったとは言え、まだまだ父母と指導員のつながりは大丈夫のようだ。

お母さんたちの心配は、子どもたちの帰宅時のこと。
学校からの帰宅時には、結構周囲の目があるけれど、その後の学童からの帰宅時には子どもたちを見守る目がほとんどなくなってしまう。不審者情報も結構多い。
ボランティアで学童っ子の帰宅に付き添ってくれるところも生まれているようだけれど、ここでもホントは父母同士のつながりやチームワークが必要なんだと思う。
みんながみんなお迎えにいける訳でもないし・・・。

ホントはまだまだ学童が必要な子もいるはずなんだけど、4年生で「卒業」を迎える。
そして保育園や幼稚園をおえた子どもたちが、小学校の入学式よりひと足早く学童保育に入ってくる。

春ですね・・・。

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2006年3月14日 (火)

細る「親のすね」<私大入学時4人に1人借金>

今日(3/14)の朝日新聞朝刊
「私大入学時 4人に1人借金」「首都圏平均166万円過去最高」
との見出しに目がとまった。

これは東京地区私立大学教職員組合連合がまとめたもので、昨年春に首都圏の私立大学22校に入学した子どものいる家庭を対象に行った調査結果。4,113人が回答。(以下 2006/3/13 asahi.com から引用)

 初年度納付金や下宿代など、入学の費用をまかなうために「借金した」世帯は全体の22%を占めた。割合は前年とほぼ変わらないが、平均で166万4000円になった借入額は前年より6万6000円増えた。自宅から大学へ通うかどうかで分けると、自宅外通学では、借入額は193万1000円、自宅通学でも134万5000円だった。全体平均、自宅外、自宅のいずれの借入額も過去最高。

 自宅外通学者の場合だと、受験から入学までにかかる費用は平均214万3156円(前年比2%増)。うち約6割は初年度納付金が占めた。

 一方で、世帯の税込み年収平均は4年連続で1000万円を割り、細くなった「親のすね」が子の生活にも影を落としている。仕送り額は5年連続で減って87年時点の水準まで後退し、月額10万1400円。仕送り額から家賃を差し引いた額を仮に生活費とみなすと、学生は1日1423円で暮らす計算になる。

家庭の収入が年々減り、それにつれて借入金が増えているのがよくわかる。
とくに地方から出てきた自宅外通学者の負担が大きい。
計算上とはいえ、仕送りから家賃を差し引くと1日あたり1,423円で生活していかなければならないことになる。
生活のためにアルバイトに追われるようでは、本来大学生がするべきお勉強がおろそかになってしまう・・・。

我が家は幸いにして自宅通学だが、それでも私大生を2人かかえるとなると、この細腕で耐え切れるか少々不安。「じっと手を見る・・・」心境だ。

詳しい調査結果は → 東京私大教連ホームページ

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2006年3月12日 (日)

かずきくん、よかったね!<岩国住民投票 艦載機受入れにNO!>

2006_3_12 かずきくん、よかったね!
きみの願い<かずきのおねがい>がみんなに届いたよ。

「投票はやめよう!」という人たちもいたけれど、岩国の大人の人たちの半分以上が投票所に足を運んでくれたよ。
そして、投票した人のホントに多くが、「アメリカのせんとうきがこれ以上岩国に来るのはいやだ!」っていう方に○をつけてくれたよ。

よかったね。

かずきくんは、まだ4ヵ月。
この投票の意味はもちろんわからないだろうけど、一生懸命がんばった君のママがとてもよろこんで、うれしそうにしているのは、きみにもわかるかな・・・。

あとは大人の責任だけど、この投票結果がきちんと反映されるように一緒に見守っていこうね。

きみが小学生になる頃には、岩国の空を飛ぶせんとうきが1機もなくなっているといいね。

岩国市議会や県議会、そして国がこの岩国住民投票の結果と多くの住民の意思を尊重し、賢明な判断をすることを今は祈りながら・・・。

投票・開票結果 → 岩国住民投票を成功させる会

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2006年3月10日 (金)

東京大空襲の日と卒業式と(「平和」は我が家から・・・24)

今日、3月10日は東京大空襲の日である。

1945年3月9日深夜から10日未明にかけて、米軍のB29爆撃機約300機が東京の下町(現、江東区・墨田区・台東区)を中心に焼夷弾による無差別爆撃を行った。
この空襲により、一夜にして東京の約3分の1が焼失し、死者10万人、罹災者100万人を出したと言われる。
連れ合いの母親も、焼夷弾と炎の中を逃げ回り助かった一人。忘れてはいけない日。

その東京大空襲から61周年の今日、我が家の高校生の卒業式(いまは卒業証書授与式!っていうようだ)があった。
当初は連れ合いが出席予定だったが、朝になっても具合が悪くて起きだせず、私の出番となった。

「何時からだっけ?」と息子に聞くと「10時ぐらいじゃん」という返事。
「昨日、予行練習だったんでしょ。何時開始って言ってた?」「9時半かな・・・。僕はいつもどおりに行くけど」
「卒業式の案内とかもらってないの?」「友だちももらってないって言ってた」
って、そんなわけで、とりあえず9時半を目指してぱらつく雨の中を自転車で学校に向かった。

と、到着したときには既に式は始まっており、式次第は卒業証書授与でクラス一人ひとりの名前を呼ばれているところだった。
どうも9時半開式というのが正解だったらしい・・・。

たんたんと式は進み、最後の閉式の辞で終了。

ふ~ん、こんなもんかな・・・、と思っていたら、「卒業生から皆さんに歌のプレゼントがあります」とのアナウンス。
そして歌われたのが、「旅立ちの日に」

2006_3_10 tamyレポート「卒業ソング『旅立ちの日に』」を読んで、聞いてみたいなと思っていた1曲。
卒業生350人の合唱。
それまでは、うるうるしていなかった周りのお母さんたちも、急にハンカチを取り出したりして・・・。

♪♪
  いま  別れのとき

  飛び立とう  未来信じて

  弾む若い力信じて

  このひろい

  このひろい大空に
           ♪♪

なかなかよかったですよ。

18才。若い正義感で、自分の力を信じて、羽ばたいてほしいと思う。

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ゴミを拾う人

朝、職場に向かうために、中央線のとある駅で降りている。

今年になってからは、歩く時間を増やすために、ひと駅前で降りるようになった。
その駅を出て歩き始めると、途中でゴミを拾いながら歩いてくる人に出会う。

その人は、スーツの上にコートを羽織ったサラリーマン風で、おすぎよりちょっと上で、たぶん55歳ぐらいの方だと思う。
右手にビニール袋をはめ(最初は透明な手袋だと思ったけど)、左手にスーパーの袋を持って、道に落ちているタバコの吸殻やティッシュや空き缶やら、この間は破れた傘も拾っていた。

たぶん、そのまま駅までゴミを拾いながら向かい、駅のゴミ箱に拾ったゴミを分別して捨て、電車に乗って職場に向かうのだと思う。(時間の関係で駅でゴミを捨てているところはまだ見ていないが)

「ご苦労様です」とは言えないまでも、「おはようございます」ぐらいは言いたいと思うのだが、まだ会釈すらしていない。

行き違うたびに「あー、がんばってますね・・・」と思いながらすれ違っているだけだ。
言葉にしないと気持ちは伝わらないとは思うのだが、なかなか難しい・・・。

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2006年3月 8日 (水)

おすぎと花粉症

花粉症の症状が出始めた。

目がかゆい。身体がかゆい。頭がかゆい。(髪の毛が少なくても関係ないようだ)

鼻水が出る。くしゃみが出る。

おすぎと花粉症の付き合いはもう30年近くになる。

高校を卒業して、就職のためにちょっと都会に出たのが31年前。

2~3年経った頃、春先の休みの日に田舎に帰ると、とたんにくしゃみと鼻水が出始める。

「こっちは寒いから風邪でもひいたかね~」と母親に言われるが、アパートに帰るとくしゃみも鼻水も止まっている。そんなことが3~4年続いた。

おすぎの田舎は山の中。家の裏山は杉の山。手入れのゆきとどかない杉の木から、それこそ花粉が飛び始めた頃だ。まだ「花粉症」というのがあまり一般的でなかった頃の話。

ある年の春、突然激しい症状が出た。

くしゃみ、鼻水、鼻づまり・・・。そして、片方の耳が「抜けない」状態になって耳鼻科に駆け込んだ。

「花粉症です」と年配の医者に言われ、そういうものかと納得した。

それ以来、毎年2月半ばを過ぎると身体全体で春が来る喜びを表現するようになった。

症状はひどい年もあれば、そこそこの年もあり、ここ数年は枯れてきた感じもしている。

それでもひどくなると、粘膜が荒れるので、鼻をかむと血が出たり、おしりがかゆくなったり、あそこの先っぽまでかゆくなったりする。

桜が咲き始める頃には、症状もおさまってくる。

毎年こうして春を迎えている。

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2006年3月 5日 (日)

今日はいい天気!(「平和」は我が家から・・・23)

我が家から少し離れたところに、臨済宗の大きなお寺がある。

遊歩道を歩き、お寺の外周をぐるっと回って戻ってくると、ちょうど1時間になる。

おすぎが毎日心がけている「1日1万歩」のウォーキングにぴったりのコースだ。

昨日、今日と、とてもいい天気。

2006_3_5 いい天気に誘われて、昨日は連れ合いと一緒に歩き、お寺の境内にも入って中の散策もしてきた。

今年は梅の開花が遅いようで、紅梅はまだつぼみが多く、白梅?がやっと5分咲きといったところだ。まごまごしてると、桜の開花に追いつかれてしまうような・・・。

そして今日もいい天気!

連れ合いは「今日はいいや」ということで、一人で出かけた。

途中から背中に汗がにじむほどの暖かさで、気持ちのよいウォーキングになった。

帰りに近くのスーパーに寄って、切らしていたメープルシロップを買い、昨日焼けなかったホットケーキを焼いた。焼けるそばから次々とたいらげられて、8枚分があっという間に胃袋の中に・・・。

う~ん、おそるべし我が家のこぶたくんたちと母・・・。

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2006年3月 4日 (土)

かずきのおねがい(岩国住民投票<艦載機受け入れ反対に○を!>

明日(3/5)告示、12日投開票で岩国基地への米空母艦載機受け入れの賛否を問う住民投票が行われる。

岩国基地は現在でも米海兵隊と海上自衛隊が共同使用しているところ。そこに米軍再編の一環として、厚木基地から空母艦載機57機、要員1,600人が移駐するというもの。岩国には既に57機の米軍機が駐留しており、今回の移駐により岩国基地はアジアで最大の米軍基地になるという。

騒音や米軍による事件・事故の拡大を心配する地元岩国では、市議会が全会一致で移転反対の決議をしたほか、近隣自治体へも受け入れ反対の動きが広まっている。
しかし、一方では「瀬戸内経済圏の浮上につながる」という声や「投票はボイコットしよう」という会もできたりしているようだ。

条例により、今回の住民投票は投票率が50%以上で成立する。
そのうえで有効投票数の過半数で賛否が決まり、市長や議会はその結果を尊重しなければならないとされている。

2006_3_4まずは有権者の過半数の人に投票所に足を運んでもらわなければならない。

この漫画は、岩国市の山根郁(ふみ)さんが友人と一緒に4ヵ月になる息子かずきくんを主人公に制作した「かずきのおねがい」。
(平和新聞2006年3月5日号)
「ボクの代わりに ハンタイのとうひょうしてね!」と訴えている。

こちらは→岩国住民投票を成功させる会
こちらは→艦載機受け入れ反対に○をする会

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2006年3月 3日 (金)

終了しますが、本当によろしいですか?(ASAhi パソコン最終号)

またおいいたしましょう。

 これが本当の最後になりました。ASAHIパソコンは今号、2006年3月15日号、通巻399号をもって、休刊させていただきます。
 読んでいただいた読者の皆さん、取材等でお世話になったメーカーの方々、広告を出していただいたスポンサー、執筆者、編集者、カメラマン、イラストレーター、デザイナー、校閲、印刷会社、製紙会社のみなさん、18年間ありがとうございました。
 また、内輪話になりますが、これまで在籍した60人の編集部員、広告、販売、制作担当者にも感謝します。
 -----中略------
 そう遠くない時期、ASAHIパソコンのDNAが継承された媒体を、お目にかけたいと思っています。
 その時またお逢いしましょう。
                                    SAHIパソコン編集長
                                    勝又ひろし

2006_3_2 思いつく限りの関係者への感謝の言葉が、アサヒパソコン最終号の巻頭に書かれている。

18年間続いた雑誌の最終号。

おすぎも10年以上のお付き合いになる。

途中、とびとびになったり、「積ん読」だけになったりした時期もあったけど。

職場に導入されたパソコンにこわごわ触るおすぎをずいぶん励ましてくれた雑誌である。

表紙に書かれた「!終了しますが、本当によろしいですか?」

「はい(Y)」「いいえ(N)」のボタンが並んでいる。

できれば「はい(Y)」のボタンは押したくないけれど・・・。

ps)でも、表紙の色はなんで「赤」なんだろう?

1.赤は「止まれ」→休刊
2.赤は「おめでたい」→とにかく最終号なのでおめでたい。(そういえば、我が家の今夜のご飯は赤飯だった!)
3.赤は「目立つ」→とにかく最後なので目立ちたかっただけ?

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2006年3月 2日 (木)

今日、ひなかざり(「平和」は我が家から・・・22)

2006_3_3 家に帰り着くと、ちょうど中2の息子が2階から雛人形のケースをもって、そろりそろりと降りてくるところだった。

年々、雛人形を出すのが遅くなっているような気がする。

でも、いったん出すと、ひな祭りが過ぎてもしばらくは飾っている。

「せっかく出したんだから、かわいそうじゃない・・・」などと言いながら3月半ばまで、そこにあったりする。

これは大学3年生の娘の初節句のとき、ばあちゃんからいただいたお祝いで買ったもの。

これでは娘もなかなか嫁にいけないかな・・・。

まあ、いいか。

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2006年3月 1日 (水)

3.1ビキニデーという日

今日3月1日は「3.1ビキニデー」である。

昨日あたりも静岡では集会などをしてるはず・・・

と思って、念入りに新聞各紙をみてみたが、ビキニデーについて書いているところはなかった。

1954年3月1日未明、アメリカが太平洋ビキニ環礁でおこなった水爆実験(ブラボー)により、マーシャル諸島の人びとや多くの日本漁船などが被災した。

静岡県焼津市のマグロはえ縄漁船「第五福龍丸」は、アメリカ政府が指定した危険区域外で操業していたにもかかわらず、「死の灰」を浴び、23人の乗組員全員が急性放射能症にかかった。
無線長だった久保山愛吉さん(当時40歳)は「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」と言う言葉を残してその年の9月に亡くなった。

広島・長崎に続いて3度目の原水爆被害となったこの事件は、日本国民に大きな衝撃をあたえた。
広島・長崎をくりかえさせるなと、全国に原水爆禁止の声がまきおこり、杉並の婦人団体から始まったとされる原水爆禁止署名は3千数百万筆を集め、翌1955年8月に第1回原水爆禁止世界大会が開催されるに至った。
この世界大会を機に原水爆禁止日本協議会(日本原水協)が結成され、紆余曲折を経ながらも原水爆禁止運動の中心となって今日に至っている。

私自身も22~25年前には、地域原水協の仲間たちと一緒に3.1ビキニデー集会に続けて参加していた。
当時の分科会は静岡大学でやっていたと記憶している。

忘れてはいけない日のはずなのに・・・

忘れ去ってはいけない日のはずなのに・・・

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