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2005年10月29日 (土)

あれから5年・・・14(手術・おっぱいは?)

2000.10.17

夕食用の肉じゃがを作ってから病院に向かう。


病院に着いたのは11時ちょっと前。すでに点滴が始まっている。

安定剤を飲んでいるとのことで、結構落ち着いた感じ。


11時半になると、僕は買っていったお弁当で昼食。

連れ合いは看護婦さんに手伝ってもらい手術着に着替える。

1時半丁度に手術室に。「楽にね」と肩に手を触れてやる。

手術部に入って行く寝台を見送る。

手術は午後2時開始とのこと。


病室で「いっしょに年取れなくてごめんね」を読み終わる。

後はひたすら雑誌、新聞を読みつづける。

6時を過ぎて担当の看護婦さんが「今呼ばれましたので迎えに行ってきます」と元気に病室を出て行く。

待つこと15分。手術部の自動ドアが開いて戻ってくる。

うん大丈夫そうだ、顔色はいいし・・・。


部屋に入った後、看護婦さんがベッドに移し、「セット」をしてくれる。

婦長室に呼ばれ、執刀医の先生から手術の説明。

1.5センチのものと小さいものを回りを2センチぐらいつけて取ってみたが、乳首側と肩側にガンがあり、もう1回り大きくとってみた。しかし乳首よりも先にガンがあったので、温存はあきらめ切除したとのこと。

脇のリンパも3箇所とった。


3日ぐらいで傷が落ち着くので、リハビリを始めて肩が上がるようにし、10日から2週間ぐらいで退院できる見込み。

今日とった細胞やリンパの病理検査の結果が1ヵ月ぐらいで出るので、それを見てその後の治療を考えましょう。放射線はもうやらないので、ホルモン療法や抗がん剤など。

部屋に帰るが連れ合いはまだ麻酔で眠っているようだ。


しばらくして「ねぇ・・・」と呼ぶような声。

「お疲れさん」というと「疲れた」と聞こえる。

あまりよく聞きとれないささやき声で「おっぱいは?」と聞いてくる。

首を横に振ると一瞬ポカンとする。「そうか・・・」

先生から聞いた内容を簡単に話す。「仕方ないね・・・」とやはり寂しそう。こちらもつらい。

暑いというので、窓を開けそこにあったファイルであおぐ。

9時少し前に看護婦さんが来てくれたので帰ることにする。

「えーもう帰っちゃうの」という声。「また明日来るよ」


麻酔で朦朧としている中で「おっぱいは?」とくちびるの動きだけで問いかけた連れ合いの声・・・。

首を振ると何とも寂しそうな顔とにじんだ涙・・・。

あれから5年経った今でも、思い出すとなんとも悲しい・・・。

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2005年10月27日 (木)

世界最大のパズル(独ドレスデン・フラウエン教会再建)

 第2次大戦末期、米英軍の大空襲によって破壊された独ドレスデンの聖母教会が、このほど再建された。10万個以上の破片を集め、可能な限り元に戻す「世界最大のパズル」と呼ばれた難工事だったが、着工から約10年かけて完成にこぎつけた。内装整備を終える30日、シュレーダー首相や米英政府の関係者も出席して完成式典が開かれる。【10/27朝日新聞夕刊】

第二次世界大戦末期の1945年2月13日深夜、米英軍の空襲によって、独の古都ドレスデンは廃墟となった。犠牲者は3万5千人以上と言われる。この空爆により街のシンボルであったフラウエン教会はがれきと化し、以降東西ドイツの統一まで放置されていたという。

統一後、地元住民らが再建団体を結成し、10年の歳月と約184億円(7割以上は世界各国からの寄付!)の総工費をかけて、10万個以上の破片を組み合わせる「世界最大のパズル」をこの度完成させたものだ。

破壊するのは一瞬。それを再び構築するのに、60年の歳月を要したことになる。

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2005年10月21日 (金)

あれから5年・・・13(手術直前)

2000.10.12

手術は来週火曜日17日になる。外泊許可をもらって週末は家で過ごすことに。

半休をとって池袋で待ち合わせ。

東武のレストラン街で妻は蕎麦定食、私は松花堂弁当を食べる。妻は生ビールのお代わりも。

その後東武美術館に京都三千院展を見に行く。
「仏像はやっぱりお寺で見なくっちゃね」という結論に。

2000.10.13(金)

15日(日曜日)に初級シスアドの試験を受けようと思うと告げる。

「がんばって受かってみてよ。私を励ますつもりで」とは言われたものの、全然勉強してないものね・・・。

2000.10.15

おにぎりを3つ作ってくれる。それを持って試験場に向かう。


試験はだめだなあ・・・。


夕食はおでんにする。みんなよく食べる。

2000.10.16

妻は病院に帰る日。新宿まで一緒に行く。山手線の混雑がひどい。

自分の成人病検診。胃のレントゲンはやめようかな、という気分。近藤誠さんの本の影響か・・・。

夕方病院に寄る。明日が手術なので、またナーバスになっている。
「私、家に帰れるかな」などと。

主治医の先生が病室に来てくれ、手術のおさらい。

睡眠薬も2錠。


手術の日程が決まり、直前の週末を我が家で過ごした。
ボクはといえば、シスアドの試験を受けようと出願はしていたものの、この1ヵ月半のバタバタで、すっかりそのことはすっ飛んでしまっていた。
もし、13日の金曜日が手術だったら、15日の試験は受けられなかっただろう。


たまたま受けられることになったシスアド試験。
妻はおにぎりとともに「がんばって受かってみてよ。私を励ますつもりで」とプレッシャーをかける。


手術前夜。妻はかなりナーバスになっていた。
いよいよ明日は手術だ。

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2005年10月20日 (木)

「私も週末自衛官」/自衛隊の敷居って低い!

今週号のAERAに「私も週末自衛官」と題した「予備自衛官補制度」体験ルポが載っていた。

 予備自衛官補のコースは二つある。一般コースと技能コース。一般の応募資格は18歳から33歳まで。3年以内に通算50日の訓練を受ける。技能コースは、医師、看護婦、整備士、語学などの資格をもっていることが条件。18歳以上、54歳まで応募できる。
 2年以内に10日間の訓練で済む。日程には必ず土日を組み込んでおり、まさに週末自衛官だ。

「予備自衛官」というのは、てっきり元自衛隊員で構成しているものだとばっかり思っていたが、どうやら違うらしい。平成13年にできたこの「予備自衛官補制度」は、民間人と自衛隊の垣根をいっきょに取っ払ってしまった。「防衛庁陸上自衛隊予備自衛官制度ホームページ」によれば次のように説明されている。

自衛官未経験者を予備自衛官補として採用し、所要の教育訓練を経た後、予備自衛官として任用する制度です。国民に広く自衛隊に接する機会を設け、防衛基盤の育成・拡大を図るとの視点に立って、将来にわたり、予備自衛官の勢力を安定的に確保し、更に情報通信技術(IT)革命や自衛隊の役割の多様化等を受け、民間の優れた専門技能を有効に活用し得るよう、予備自衛官制度へ公募制(予備自衛官補制度)を導入しました。

AERAによれば、「自衛隊でカレシを見つけたい」などと張り切る20歳の看護師も訓練に参加しているという。一日あたり7900円の手当と旅費もでる。

 精神教育で、自衛隊の使命について学ぶ。入隊27年目という中隊長の講義。
「一般の人は、自分の家族を守るが、自分たち自衛官は、国を守り、国に命をささげる」
「軍事組織として、自衛隊は、万事戦闘を行動基準にする」

う~ん・・・。

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2005年10月17日 (月)

あれから5年・・・12(手術は13日金曜日?)

2000.10.10

妻、帰院。朝、池袋回りで新宿まで一緒に行く。


夕方、仕事を終え5時ちょっとすぎに病院着。


6時ちょっとすぎに「婦長室」に。執刀医の先生の説明を受ける。

今までの経過とエコーやMRIの写真を見ながら説明を受ける。めずらしい粘液ガン。

ホワイトボードに図解してくれる。あざやかにわかりやすく描くこと・・・。


乳房温存療法でやったらどうか。ガンのしこりのまわりをつけて切除する。そのあと放射線をあてる。ただし、開けてみて、あらかじめわかっている1センチちょとのガンともう一ヶ所のところのほかにもガンがあるようだと、場合によっては乳房切除になる。乳首とガンがあるところの先から3箇所細胞を取り顕微鏡で見る。


わきの下のリンパもとる。最近はなるべく大きくいじらないでとるので、その後はリハビリをすれば元どおりになる。

手術後1週間ぐらいで退院。


放射線は退院後2週間ぐらいしてから、5週間に5回(?)あてる。

手術の承諾書と前哨リンパを探すためのアイソトープと色素注入による検査の依頼状をもらう。

手術の予定は今のところ13日金曜日。そこに入らなければ来週。明日わかるとのこと。

病室に帰り、妻泣く。「もうダメかも」と。

7時の面会時間がきたので、帰る。妻、すがりつく。

この後、担当の先生が来てくれ10分ほど説明やケアをしてくれたとのこと。


池袋で本を2冊買う。

福富隆志(国立がんセンター中央病院外科医長)著「いちばん新しい乳がんの本」

清水光雄(毎日新聞社会部記者)著「一緒に年取れずにごめんね」

2000.10.11

夕方、病院に寄る。まだ、手術の連絡はないという。

家に帰ると、妻より電話あり。今週の金曜日には入らなかったって。
担当の先生がいろいろ説明してくれたけど、乳腺の会議が毎週水曜日にあり、そこで日程を決めているとのこと。

先週の木曜日入院だったので、今週金曜日はちょっと難しかった。医療事故も多いことから看護婦さんに負担の大きい手術は続けてやれない、とのことのようだ。


ずっと入院しているよりも、1度退院して手術の前日に再入院したほうがいいのでは、とのこと。手術が来週後半ならそれもありか。


「13日の金曜日」はなくなったので、喜ぶべきか。前向きに考えれば。

いずれにしても今週末は帰ってくることになる。


「13日金曜日」と聞くとあまりいい気持ちはしない。別にそんなことは信じていないと思っていたけれど、急に不安になったりする。

いま思えば何でもないようなことでも、とにかく過敏に反応していたあの頃。
入院してから二度目の週末も、また家で過ごすことになった。

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2005年10月16日 (日)

「希望は地域にある」(暉峻淑子)

機会があって、埼玉大学名誉教授の暉峻淑子(てるおかいつこ)さんの講演をきいた。
タイトルは「-戦後60年、平和憲法とともに生きて-どうなる日本、私たちの暮らし」

その中で気になった(気に入った?)言葉を書き留めた。

「前回の選挙結果だけを見ると暗澹(あんたん)たる気持ちになるけど、実際の得票率は与党53%、野党47%」
「日本人の識字率は100% それでも自分の頭で考えようとしない。これは国家破壊のパターン」
「“だまされない”キャンペーンをやらなくちゃダメかしら」

「消費税が導入されてからの累計が131兆円。それとほぼ同じ額を法人税減税している」

「イラク人の死者は30万人とも言われている。アメリカ軍の死者は2,000人」

「いまや希望は地域にある。国は税源の委譲にあわせて権限の委譲もしなけらばならなくなった。地域でみんなで集まり声を合わせていけば相当な力になる

「中曽根さんは『改憲されるまで生きる』とおっしゃるが、私は改憲阻止されるまで生きたい」

暉峻さんは77歳になったという。それでも自ら代表をつとめる「国際市民ネットワーク」で旧ユーゴスラビア難民・避難民の支援に力を注いでいる。

「それぞれの家庭は大海に浮かぶ船。その船だけを守ろう、きちんとしようと思うだけではダメ! 大海が荒れたらそれでおしまい。大海が荒れてもそれを乗り越えられる船をつくる。たとえ転覆してもそれを助け合える船を作ることが大事」

「平和は我が家から」なんて言ってる自分がチョット戒められた感じ。

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2005年10月15日 (土)

あれから5年・・・11(一時帰宅)

2000.10.6

妻、一時帰宅する。


サンマを5枚並べて焼けることの嬉しさよ。


近藤誠著「ぼくがすすめるがん治療」を読み始める。

千葉敦子著「死への準備日記」を買う。


2000.10.8

みんなの声やがたがた立てる音が聞こえてうれしいとのこと。


昼は入院前に行きそこなったと思っていた大好きなカレーやさんに行く。


その後、映画を観に行く。妻はまんじょう霊戦記(?)。
ぼくと小3の息子はホワイトアウト。


夕方、大学病院の担当の先生より電話。10日の午後6時に執刀医の先生から手術の説明があるので、聞きたいご家族の方はおいでくださいとのこと。


夕飯は食べたいと言っていたチゲなべにする。最後のおじやまでよく食べる。
満足していただいたようだ。

2000.10.9

中1の息子が初めての剣道の試合ということで、総合体育館に見に行く。

簡単に負けるが、見られてよかった。


やっと入院したと思ったら、すぐに一時帰宅。
でも家族5人で一緒にご飯を食べられることがとてもうれしそうだった。
ちょっと前までは、そんなことは当たり前のことで、とりたてて「うれしい」と思うようなことではなかったのに・・・。

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2005年10月12日 (水)

あれから5年・・・10(元同僚へのメール)

8月24日に連れ合いが乳がんの告知を受けました。

6月いっぱいで退職し、専業主婦に意欲(?)を燃やしたのもつかの間。7月中ごろに乳房のしこりが気になりはじめ、近くの病院へ。
そこでは悪い病気ではないとの診
断だったものの、本人は心配し大学病院へ。血液検査では問題なかったものの、細胞検査でガンが見つかり、「最悪の場合はお正月は迎えられないかも」との医者の話。

途中まで迎えに行き、池袋の西口公園で二人で泣きました。
よそさまからは、まるで中年の二人が別れ話でもしているように見えたことでしょう。

その後、超音波(エコー)やMRI(磁気共鳴・・・磁力を使って全身の断層写真をとるらしい)アイソトープなどの検査を経て、とりあえず今の段階では他に転移はしていないので、乳房のしこりをとり切れば大丈夫ではないかということになりました。
乳房温存療法で乳房も残せるのではないか。ただし、開けてみないとわからないところもあるが・・・。

告知を受けた日に入院の申し込みをしたものの、ベッドが空かず、待ちにまって、やっと今日入院できたというわけです。

この6週間の長かったこと。
ガンの告知を受けた本人が一番つらいのはもちろんですが、そばにいるものにとっても結構つらい日々でした。

連れ合いは、告知以降、ほとんど引きこもり状態で毎日を過ごしており、家族との関係だけでこの6週間を暮らしてきました。

つい、こちらも弱気になったりして、誰かに聞いてほしく救いを求めようとしてしまったわけです。
連れ合いは元の職場や知り合いの話のネタになるのを極端に嫌がっており、僕が頻繁に休む関係で職場の上司と同僚に話しただけになっています。

この6週間は、「夫婦」や「家族」というものを改めて考えさせられました。

今日入院し、来週末に手術。その後10日ぐらいで退院できるのではないかとのこと。順調に行けば今月末には退院できるようです。
退院してからがまたつらいのかもしれませんが。

わけのわからない長いメールになってしまいましたが、お許しください。
こちらは一方的でも話せてほっとするところあり、あなたの都合も考えず書いてしまっています。
また、書くことがあると思いますが、迷惑でなければお付き合いください。

では、また。

自分の胸の中にしまっておかなければいけないと思いつつ、それでも誰かに聞いてほしくて、退職したかつての同僚にメールを打ちました。
メールなので話しをしたわけではないけれど、それでもずいぶん楽になった自分がいました。
「何の力にもなれないけれど、メールを書くことで少しでも気晴らしになるのであれば喜んで。いつでも、いくらでも書いてください。お気遣いは無用です。」との返信が届いた。

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2005年10月11日 (火)

「日本の国民性の一番の欠点は付和雷同だ」(故後藤田正晴氏)

今日の「日刊ゲンダイ」に故後藤田正晴が生前最後のテレビ出演となった「時事放談」(8月21日/TBS)で話された内容が掲載されていた。

「僕はしょっちゅう言うんです。何かが流れ出した時に『おいちょっと待てよ』という空気が生まれない。一瀉千里(いっしゃせんり)に流れてしまう。異議申し立てをすると変わり者だとか、けしからんとなる。これはおかしいと思っても反対と言わない。今の日本の空気の中にそれがある。非常に心配な傾向になってきたと思っている。日本の国民性の一番の欠点は付和雷同だ」

後藤田正晴氏といえば、元自民党の政治家で官房長官・副総理までつとめられた方。う~ん。

昨日読んだ「茶色の朝」の話とピタッと重なってしまった・・・。

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2005年10月 8日 (土)

ノーベル平和賞/被団協は受賞できなかったけれど・・・

(Yahoo!ニュース・海外ニュース10/7より)

 【ロンドン7日時事】ノルウェー・ノーベル賞委員会は7日、2005年のノーベル平和賞を国際原子力機関(IAEA、本部ウィーン)とムハンマド・モスタファ・エルバラダイ事務局長(63)=エジプト出身=に授与すると発表した。授賞理由については「原子力の軍事転用を防ぎ、平和のための安全利用に向けた努力」を挙げた。
 同委員会は「核兵器の脅威が今再び深刻さを増しつつあり、この脅威には可能な限り広範な国際協力を通じて対処しなければならない」と指摘。さらに、軍縮の努力が行き詰まりを見せる中で、「IAEAの取り組みは計り知れないほど重要だ」と強調した。

4回目のノーベル平和賞候補にノミネートされていた被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の受賞はならなかった。
今年はヒロシマ・ナガサキの被爆から60周年。ヒバクシャの高齢化がすすむ中で迎えた節目の年。ノーベル平和賞を受賞できればと思っていたのだが・・・。

被団協は1956年8月に結成され、被爆者の唯一の全国組織として、核兵器の廃絶と原爆被害への国家補償を求めて活動してきた団体。国内だけではなく海外にも代表を送り被爆の実相を訴えてきた。今年5月には国連本部で開かれた「核拡散防止条約(NPT)再検討会議」にあわせて、国連で初めての原爆展を開催している。(関連記事tamyレポート:国連で初の原爆展の関連報道から思うこと

2005_10_8 受賞はできなかったが、被団協事務局長の田中熙巳さん(73)は「最後まで有力候補に残ったと聞いている。私たちの運動が評価されたと確信した」「被爆者は高齢化している。だが命あるかぎり、核兵器廃絶のため、そして原爆被害者に対する国の補償を実現するため、全身全霊で打ち込みたい」と語ったという。(東京新聞Chunichi Web Press

かつて、「えっ!」という方がノーベル平和賞を受賞したことがあった。あのノーベル賞をお返しし、ぜひ被団協に差し上げたい。そう考えるのは私だけだろうか・・・。

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これ笑えます。

これを読みながら、ひとりでニマニマしてしまった。
(10/8 朝日新聞 be onSaturday e-ntertainment の投稿欄「いわせてもらお」から)

◎父の思いやり
 遠方に住んでいる実家から電話がかかってきた。「長野に旅行に行っておいしいプラムを買ってきた。おまえのところに送ると、送り賃の方が高くつくから、スーパーでプラムを見かけたら、思い出して買って、食べておくれ」
(東京都江戸川区・現地の採れたてが食べたかった・44歳)

って、やさしいお父さんですよね・・・。いいなあ、このセンス。

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2005年10月 6日 (木)

あれから5年・・・9(入院)

2000.10.1

下の息子の9歳の誕生日。

一緒に自転車で駅前まで出かけたとのこと。

入院の予定が立ち、気持ちがすっきりしてきたのかも知れない。

お料理もいっぱい作って、楽しい誕生会。

おばあちゃんにデジカメで撮った写真でプレゼントのお礼のはがきを作る。

2000.10.4

「電話してみてくれる」と診察券を渡される。4時ごろまでに連絡がなければかけてみよう。

11:50  病院から電話。空きがでるので、明日の1時に入院できるとのこと。携帯で自宅に連絡。ひと安心。

おばあちゃんから留守電あり。
「どこが悪いのですか。どこに入院するんですか。教えてください、お父さん・・・」

近藤誠著「それでもがん検診うけますか」を読む。

2000.10.5

子どもたちを送り出した後で、入院の準備。といっても告知を受けた翌日にはすべてがそろってバッグの中に詰まっていたのだが。
8月下旬の暑い夏に準備したものは半そで中心。
でもこれで大丈夫でしょう。

突然、妻泣き出す。

「もう本屋には寄れないかも知れないから」と言って、駅下の本屋に寄る。「にゃんにゃん女子高」を買う。

池袋西武8階のカレーやさんでカレーを食べる。

12:50に入院受付着。手続きをして、1号棟4階のナースセンターへ。

担当の看護婦さんが部屋に案内してくれ、こまごまとした説明をしてくれる。

少ししてから、主治医の先生が病室に現われる。(う~ん、若い!)
自己紹介と本人が病気についてどの程度まで理解しているか、今後の日程などについて話す。

「乳房は残したほうがいいですよね。」
「ええ、子どももいるし」
「おいくつですか」
「高1と中1と・・・」

妻、泣き出す。

順調に行けば、来週末に手術。あるいは翌週。手術はしこりの回りを

1.5センチぐらいつけて切除。開けてみて細胞を顕微鏡でのぞいて、判断する。
手術後に放射線をあて、手術後10日ぐらいで退院できる。
「今の状態なら予後は大丈夫だと思いますよ」とのこと。

妻、再び、三度泣く。


ペットボトルのお茶を買って戻ると、看護婦さんが検温中。血圧も測る。

帰る。

買い物をして帰る。妻から電話。さっきも電話したとのこと。「ただだからね」って。

9時までに4回ある。

「さっき先生が来て、7、8、9日は何もないので外泊してもいい」とのこと。
明日、もう一度写真をとる。


「明日(金)帰ろうかな、帰り寄ってくれる?」

やっと入院したと思ったら、1泊でもう帰宅・・・。ほんまかいな。

  

告知から1ヵ月半。
季節は夏から秋に変わっていました。
「待つ」時間は本当に長く感じると、あの時は思いました。

そして、入院したと思ったら「一時帰宅OK」で週末は我が家に・・・。

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2005年10月 3日 (月)

あれから5年・・・8(入院待ち)

2000.9.27

入院の確認のため病院へ。担当の先生が海外出張のため別の先生が対応。30半ばの若い先生だがとても柔らかな対応をしてくれる。

「この入院を持つ間が、ホントにつらいんですよね…」

「確認したところ今週末には何とか入院できそうです」

「入院の順番は私たちには決められないんですよ。えらい先生の患者さんばかり先になっても困りますし」


妻ホッとする。


入退院受付で再度確認。

「今週末には空きが出ると思うんですが」

「順番を決めるのは先生方なんですよ」

再度、診察の合間に先ほど話した先生にお願いに行く。

2000.9.29

今日も電話はこなかった。

「首のリンパ腺がはれて痛いのよ。このまま、死んじゃうのかな」と妻。


中1の息子が左乳首付近にしこりがあって痛いという。妻、青ざめる。

「大丈夫だよ」と言うぼくに、「あなた私のときもそう言ったでしょ」ときつい。


近藤誠さんの「患者よ、ガンと闘うな」を読み始める。

2000.9・30

電話は入らず。


妻にうながされ、入院受付に電話してみる。


電話したが、自宅も職場にもつながらなかったとのこと。

今週末は無理だったが、「来週の中ごろ、火、水、木には大丈夫だと思う」とのこと。


なかなか入院日が決まらず、長い一日が過ぎていく。

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2005年10月 1日 (土)

「平和」は我が家から・・・8(綾瀬はるか)

今日(10/1)の朝日新聞夕刊「ズームアップ」欄に「伝える仕事の重み実感」と題した、綾瀬はるかの記事が載っていた。(などと書き始めるとまるで「綾瀬はるか」を知っているようだが、ホントのところは掲載されている写真を見て、「おぉ、結構かわいいじゃん!」と思ったばかり・・・)

4日からTBSで3夜連続で放送される「赤い運命」(昔、山口百恵がやってたやつだよね)の主演に関する内容だった。
広島の生まれで、ホリプロのスカウトキャラバンで審査員特別賞を受けたが、家族は芸能界入りに反対。1年後に父親が「一度しかない人生。駄目だったら帰ってこい」と東京に送り出してくれたという。

  父親が大好き。「困ったり落ち込んだりした時、すぐ相談するんです。すると『気にしんさんな』 『笑顔を忘れなさんな』って言葉にホッとする」。母親が父親を尊敬しているのだそうだ。「父親をばかにする母親っていますよね。やっぱりそれは良くないと思うんです」
  この夏、戦後60年の特番でナビゲーターを務めた。テーマは原爆。番組で祖母から初めて原爆体験を聞いた。祖母の思い、それまでの自分の自覚のなさに涙があふれた。そして「赤い運命」も、反戦がサブテーマだった。「まさに運命」と思った。
  「私は弱い人間だし、まだまだ自分の仕事に不安だらけ。でも、伝えたい、という気持ちの大切さが分かってきた」。俳優こそ自分の仕事。20歳で得た大きな宝物だ。

そういえば我が家の娘も20歳・・・。
ふっと娘のほうに目を向けると、テレビのほうを向いたまま寝ている! おいおい!!

インリン様 につづいて、今日から綾瀬はるかも応援しちゃおう!

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